チャーリーとチョコレート工場は昔何度か見たことがありましたが、ポップな音楽ばかりが耳について、あまりストーリーを追ってなかった気がします。
改めて大人になってから見てみると、見え方が変わってきますし、映像美だけでなく、ストーリーを追って伝えたかったこと、意図も考察できる余裕ができてきます。悪く言えば素直に見れなくなっているという気もしますが。笑
今回はチャーリーとチョコレート工場の考察、伝えたかったこととは何か?について書いていきます。
目次
そもそも原作、旧作とはだいぶ違う
そもそも映画は原作小説とはだいぶ変わってしまうものが多いですが、チャーリーとチョコレート工場も同様に、原作とはだいぶ違うようです。
あくまでもオリジナルである小説の設定は引き継ぎつつ、今作でのオリジナルエピソードも多く追加されているようです。特にウォンカの幼少時代、”家族”についてを多く語ることなどは旧作はミュージカル映画であったこともあって、新チャーリーとチョコレート工場でのオリジナルであったとか。
旧作では、チケット目当てで全世界でチョコレートが無残な姿でゴミになっている描写があったようですが、今作ではチョコがゴミになっている描写はありません。
アリスインワンダーランドも務めたティムバートンが監督ですから、世界観をメルヘン、子どもに寄せ、あまり現実的な描写は映さないようにしているようにも感じました。
ウォンカチョコの5枚のチケット
ウィリーウォンカは自分の後継者を見つけるために5枚のチケットをチョコレートに混ぜ、当てた5名を工場に案内し、1人に特別賞を与えると言います。
映画全体でのウィリーウォンカは姿形は大人ですが、内面は子どもの頃と同じで、ワクワクすることが大好きです。つまらないことはしたくないために、大人のように合理性で決めるやり方はせずに、ワクワクするやり方として「当てた人!」という選び方をしたのだと思われます。
金のチケット、という点がまた粋ですよね。チョコボールを思い出します。笑
家族を招待した理由は劣等感
金のチケットを当てた子どもたちは家族の誰かを一名連れてきていいことになります。それぞれ両親のどちらかを連れてきますが、チャーリーは目をキラキラ輝かせるおじいちゃんを連れて行きます。
子どもたちだけではなくて、大人を連れて行った理由への見方は二つあります。1つはこの映画の主となる家族をテーマにするため、もう1つは単純に子どもだけだと怖いから、です。映画でなければ後者の怖いから、がピンときますね。だって子どもだけで閉鎖されている工場にたった5人で見学するなんて、おかしな話でしょう?ですが、もう1つの家族がテーマだから、という理由も至極ピンと来てしまいます。
ウィリーウォンカの小さい頃の描写で、実父が厳しく、歯医者であったこともあって、周りの子どもは甘いものを食べられるのに、甘いもの、お菓子を食べられないことへの憤りから家出をしてしまったというのがあります。そこからウォンカはずっと父親との確執があり、parents(両親)という単語を口に出せなくなってしまいます。
本人は気づいてはいないようですが、潜在的には寂しく、家族のような存在を恋しく思っていたウォンカは、自然と家族を一人ずつ呼び、慌てふためく姿を見たかったのかもしれません。もしくは、家族なんて言っても、お互いを利用するだけの関係で、愛情なんてものがないはず、というのを目の前で見たかったのかもしれませんね。
思いやりに溢れる、チャーリーのことは気に入っており、家族に合わないことを条件に工場を譲ると言いますが、断られてしまっています。家族を持たないウォンカだからこそ、貧しくとも家族に恵まれているチャーリーでは、許せず、与える気にならないために同じ境遇にしたかったのでしょう。
はじめからチャーリーに渡すことが計画されていた
劇中では、4人の子どもたちの名前が入った歌が用意されています。ということは、はじめから見学をしにくる子供たちは懲らしめる予定であり、チャーリーに渡す気だったのか?という見方もできます。
チャーリーは前日にたまたま拾ったお金で近所のお店でチョコを買い当てていますから、チャーリーに渡そうとしていた、という見方は違うかもしれません。
他4人はすでに決まっていたので、4人が喜ぶ場所、歌を用意した、もしくは名前以外の歌を用意しつつ、名前だけを当てはめたという見方が気持ちいいですね。
メルヘンの映画ですから、”何が起こっても”おかしくはありませんし、なぜ?を考えすぎるのは無粋な気がしますから、この考察はこの辺で。笑
チャーリーとチョコレート工場で伝えたかったこととは
チャーリーとチョコレート工場で伝えたかったことは何だったのか、10人見たら9.5人は「家族との繋がりが大切」と言いそうですし、僕も同じです。笑
前半は一見、子どもたちがわがまますぎて、その子どもたちの親を皮肉っているようにも見えます。確かに少し皮肉も言いたかった感はあるでしょうけども、別にこの年ごとの子どもって超上流階級で躾がめちゃくちゃしっかりしている子どもは抜いて、ほとんどこんな感じじゃないかな?とも思います。
- とにかく暴食する、食いしん坊の肥満少年オーガスタス
- お金持ちだが、めちゃくちゃわがままな少女ベルーカ
- 勝ちにこだわり、相手を罵倒するバイオレット
- 頭はいいがテレビばかり見ている生意気なマイク
- 家は貧しいが心優しい少年チャーリー
子どもたちってこんなもんだと思いますし、全部持ち合わせている気もします。なので皮肉っぽく描き、共通敵を作り、チャーリーを応援したくなる図式を作るための、前座、かませ犬が他の4人の子供です。笑
わがままで自分勝手な4人に対してチャーリーは他人思い、みたいな書き方がされているのは、チャーリーを際立たせるためであって、チャーリーが本来異常なのです。あの立ち回りができる子どもはなかなかいません。
ウォンカは小さい頃「自由」にさせてくれない父親から自ら離れることで、「自由」を手にした。その自由で巨額の富を得たが、彼は満足しなかった。自らが作り出したものが盗まれて憤慨し、他の人を追い出したはいいものの、後継者もいなくなってしまった。このまま死んでしまえば、自分は消えていく、自分の作ったものも消えていく。そう考えるとものすごく怖くなり、今回の後継者探しをすることにしたのでしょう。チャーリーの子どものようないい子が現れなければおそらくなかったことにもしたはずです。わがままなウォンカですから。
ウォンカはチャーリーへ全てを渡そうとしますが、代わりに家族とは縁を切れと言いますが、チャーリーはそれならいらないと言います。ウォンカにとっては驚きでした。家族は自由を妨げるものであり、それらを捨てれば、全てが手に入るのになぜ?
その答えは自らが気づいていました。ウォンカはずっと寂しかった、ずっと虚しかった、父親に認めて欲しかった。チャーリーについていき、父親の歯医者へ向かい、父と抱き合い過去の確執を埋めていきます。
そこからは家族へのコンプレックスが前よりも無くなったために、チャーリーの家族とも食卓を並べて食事ができるようになります。昔であれば、家族との幸せを享受できず、目をそらして遠ざけていたのにも関わらず、です。
これらを通して、伝えたかったことは、みんな気づいているでしょうが、「家族は大事」ということです。親には親の事情があり、厳しい躾をしてくるかもしれません。それらは確かに邪魔で、絆を切ってしまえば楽になるかもしれません。ですが、絆を切ってしまえば、身軽にはなるけれど、虚しくなるのです。「孤独を選び、えた栄光は寂しいよ」そう言われている気がします。家族、友達、恋人、隣人でもいいかもしれません。人との関係を断ち切った先の栄光よりも、日々いいことで喜び、悲しいことで泣き、一喜一憂する人生はいいものですよ、ということをチャーリーを通して伝えたかったのかな、と僕は思いました。
※感じ方は個人の自由です!笑